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私と美術館
定年後、美術館ボランティアをしていた永田米次さんが美術鑑賞の楽しさを語ります。
第16回
 ≪第18号 1995.7.1発行号より≫

 今回は前回の続編「歌川広重」論から始めましょう。「広重」は師「歌川豊広」から命名された雅名でしたが、「安藤広重」の安藤家の祖先は某大名の専属医師という名門の家柄です。このことを考えますと、広重が良家の生まれであったので、作品は洗練された都会趣味が表現されていたのではないでしょうか。
 広重の作画活動は、文政の時代から天保・安政の約40年間と思われますが、豊広に入門し翌年には早くも雅名として「広重」が許されたスピードは、広重の画才能が特に優れ、信頼された結果といえよう。でも、広重が入門の時に大変興味深い事がありました。「歌川列伝」によりますと、当時特に評判の高かった「歌川豊国」門を訪れた時のことです。「門人の日に多きをもって入門を許されずこれによって貸本屋某の紹介をもって「歌川豊広」の門に入らんとす、豊広またこれを拒みしが、徳太郎(広重の幼名)細に己の志を語り頻りに乞うて止ざりしかば、豊広深くその志厚きに感心し、終に入門を許したり」とあります。江戸時代に絵師の道を志す者は、入門という大変厳しい苦労があったことが伺えます。師豊広は穏やかな画風に地味で確実な筆法の持ち主でしたので、門人の多い豊国を師とするよりは、十分指導が受けられる環境の豊広の門の方が幸せだったと思いました。広重の画風は師豊広の感化も考えられますが、浮世絵の技法は狩野派の画家、岡島林斎に学び、更に大岡雲峰について南画をも学んだと伝えられています。十分な基礎技術を修めたと思います。
 広重が絵師としての第一歩は、美人画に専念した一遊斎と雅号した頃です。この雅号は、作家の心境や画風に変化更新が起こったことを意味しています。この一遊斎の雅号は文政12年33才の17年間も続きました。この時尊敬の師豊広が亡くなり、師に思いを寄せてか、一幽斎と雅号を改めます。そして、作画の目標を花鳥画と風景画に変えたことは、大変勇敢なことであったと思います。これは、広重が旧殻を脱して斬新な独自の自然観の表現技法を発見したことと思います。
 広重が風景画家として決定的な地位を占める動機が訪れます。それは、定火消同心と言う武士を正式に仲次郎に譲り、一立斎と雅号を改めた頃です。では、今日私達に最もポピュラーな浮世絵版画「東海道五十三次・保栄堂版」に注目しましょう。この大判道中錦絵シリーズは爆発的な人気を呼ぶ事になります。これは新進風景画家「広重」が東海道の往来をつぶさに観察したスケッチの記録の道中物語と思えてなりません。広重の旅の始めは天保元年で、旅の詩人ともいわれ、都合4回の旅が記録されています。中でも最も著名な記録は、天保3年江戸幕府の二大行事の一つ、徳川将軍は毎年8月1日に京都の御所で行われる駒牽という行事に使用される馬を献上する慣例の旅へ同行した記録です。この、旅行中に得た各宿場風景を中心に写生スケッチした大連作が出世作(保栄堂版・東海道五十三次)です。この大連作は次の天保4年から5年の1月までかかりました。保栄堂は版元です。この、江戸から京都を結ぶ東海道は、文化的に果たした役割と、旅の往来も頻繁になり、京都・奈良見物伊勢神宮の参詣等に関心が深くなった時代を迎えたと思います。
 日本の風土的特色が歌われたこの作品が、広重によって代弁されたのではないでしょうか。旅行中に眺めた美しい風景、田舎の生活風俗様式、宿場の様子等を知る貴重な、構図・色彩文化と思います。

 
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第15回
 ≪第17号 1995.4.1発行号より≫

 今回から「浮世絵版画」についてその展開をテーマとして進めて参りたいと思います。この理由は、昨年9月由比町に開館した「東海道広重美術館」の協力員として登録されたことに基因することで現在県立美術館で作品解説(東海道五十三次)を担当した経緯からして、復習を兼ねて学習している内容を発表するものです。
 「浮世絵」は、優れた技術を要する版画と肉筆画という形式でちょうど車の両輪のように発展したと思います。これは長い戦乱の時代は終り、江戸という社会構成の中で庶民階級の娯楽の為に作られ鑑賞された庶民芸術の貴重な文化であったと思います。そして、「浮世絵版画」を大別してみますと役者絵・美人画・風景画のジャンルに分けられています。今回から私が関係している「広重美術館」にちなんで風景版画に注目しましょう。
 この「風景版画」は、三つのジャンルの中ではいちばん遅れて登場しています。その時代は文化・文政・天保で「天保の改革」とか「安政の大獄」という激動の頃で正に幕府の末期に近い頃に当たります。風景版画の旗手は葛飾北斎と言われ、歌川広重によって完成し大衆化されその頂点に達したと考えられます。でも浮世絵を振り返ると浮世絵の開祖と言われた菱川師宣の作品「吉原の躰」には吉原堤の風景が描かれていることを見ますと、風景描写は歴史的に古いことがうかがえます。この浮世絵風景版画の発展に大きな影響を与えたのは、歌川豊春・司馬江漢と言われています。江漢は洋風画の技法や銅版画の製法を研究し、開発された内容と豊春の大和絵という本流画法を一体化して、ここに風景版画が成立したと思われます。
 始めに初期風景画の展開は、徳川幕府創設以来江戸を起点として諸国大名の参勤交代の制度によって街道の整備が進み経済政策として他領との交易も盛んとなったためもあって宿場は年々栄え、旅は自然に便利となった。四国巡礼、伊勢参り、物見遊山などでにぎわいをみせるようになり、名所絵、地誌、紀行文等が出版され、名所図絵等が流行し庶民の風景画への関心を高めたことも事実であったと思います。
 浮世絵風景版画を語るにはまず葛飾北斎をあげなければなりません。北斎は非常に激しい気性の人のようで逸話も多いと記されています。一生の間に30回以上も画名を変えたことでも有名です。でもひと一倍の努力家で、狩野派や土佐派を学び自然を見る正しい眼は常に新鮮で、写実的は一時代を作ったと思います。この北斎は歌川豊春、司馬江漢の写実的な洋風画や銅版画に興味を抱き、洋風技法を修得したと見られその作品にもうかがい知ることができます。 
 歌川広重芸術を語るテーマにしては前置が長すぎたでしょうか、そろそろ本論の広重論に入らなければと思います。広重美術館で「安藤広重」と「歌川広重」はどう違いますかと尋ねられることがしばしばありますので、このことについてまずふれましょう。
 広重は寛政9年(1797)江戸八代洲河岸の定火消屋敷で生まれました。広重関係系図をみると、もと津軽家の小姓頭をしていた田中徳右衛門の三男・光右衛門の子、源右衛門が幕府定火消同心を勤めていた安藤十右衛門へ養子にはいって安藤姓を名乗ります。そして一男三女が生まれ、その長男が広重です。幼名を徳太郎と元服して重右衛門と名乗ります。広重は生来絵が上手で「十歳・安藤徳太郎」と記された「三保松原図」があります。しかし、徳太郎十三才のとき両親が他界し、この不幸から二年後の文化八年に歌川豊広に入門、翌年画名として「歌川広重」と命名されました。この詳細は次回で説明しましょう。
 では次号で。

 
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