今回は前回の続編「歌川広重」論から始めましょう。「広重」は師「歌川豊広」から命名された雅名でしたが、「安藤広重」の安藤家の祖先は某大名の専属医師という名門の家柄です。このことを考えますと、広重が良家の生まれであったので、作品は洗練された都会趣味が表現されていたのではないでしょうか。
広重の作画活動は、文政の時代から天保・安政の約40年間と思われますが、豊広に入門し翌年には早くも雅名として「広重」が許されたスピードは、広重の画才能が特に優れ、信頼された結果といえよう。でも、広重が入門の時に大変興味深い事がありました。「歌川列伝」によりますと、当時特に評判の高かった「歌川豊国」門を訪れた時のことです。「門人の日に多きをもって入門を許されずこれによって貸本屋某の紹介をもって「歌川豊広」の門に入らんとす、豊広またこれを拒みしが、徳太郎(広重の幼名)細に己の志を語り頻りに乞うて止ざりしかば、豊広深くその志厚きに感心し、終に入門を許したり」とあります。江戸時代に絵師の道を志す者は、入門という大変厳しい苦労があったことが伺えます。師豊広は穏やかな画風に地味で確実な筆法の持ち主でしたので、門人の多い豊国を師とするよりは、十分指導が受けられる環境の豊広の門の方が幸せだったと思いました。広重の画風は師豊広の感化も考えられますが、浮世絵の技法は狩野派の画家、岡島林斎に学び、更に大岡雲峰について南画をも学んだと伝えられています。十分な基礎技術を修めたと思います。
広重が絵師としての第一歩は、美人画に専念した一遊斎と雅号した頃です。この雅号は、作家の心境や画風に変化更新が起こったことを意味しています。この一遊斎の雅号は文政12年33才の17年間も続きました。この時尊敬の師豊広が亡くなり、師に思いを寄せてか、一幽斎と雅号を改めます。そして、作画の目標を花鳥画と風景画に変えたことは、大変勇敢なことであったと思います。これは、広重が旧殻を脱して斬新な独自の自然観の表現技法を発見したことと思います。
広重が風景画家として決定的な地位を占める動機が訪れます。それは、定火消同心と言う武士を正式に仲次郎に譲り、一立斎と雅号を改めた頃です。では、今日私達に最もポピュラーな浮世絵版画「東海道五十三次・保栄堂版」に注目しましょう。この大判道中錦絵シリーズは爆発的な人気を呼ぶ事になります。これは新進風景画家「広重」が東海道の往来をつぶさに観察したスケッチの記録の道中物語と思えてなりません。広重の旅の始めは天保元年で、旅の詩人ともいわれ、都合4回の旅が記録されています。中でも最も著名な記録は、天保3年江戸幕府の二大行事の一つ、徳川将軍は毎年8月1日に京都の御所で行われる駒牽という行事に使用される馬を献上する慣例の旅へ同行した記録です。この、旅行中に得た各宿場風景を中心に写生スケッチした大連作が出世作(保栄堂版・東海道五十三次)です。この大連作は次の天保4年から5年の1月までかかりました。保栄堂は版元です。この、江戸から京都を結ぶ東海道は、文化的に果たした役割と、旅の往来も頻繁になり、京都・奈良見物伊勢神宮の参詣等に関心が深くなった時代を迎えたと思います。
日本の風土的特色が歌われたこの作品が、広重によって代弁されたのではないでしょうか。旅行中に眺めた美しい風景、田舎の生活風俗様式、宿場の様子等を知る貴重な、構図・色彩文化と思います。
|