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スイスだより
趣味の山歩きを兼ねて長女が嫁いだスイスを頻繁に訪れた近藤美佐子さん(元中学校教諭)による教育と紀行のエッセーです。教員の方に人気です。
スイスだより 本のご紹介
「スイスだより」
近藤美佐子著  出版:羽衣出版
1500円(税込)
2006年10月発売

羽衣出版のページより本をお買い求めできます。
第48
48 ことばと暮らし 2 (第63号 2006.10.01発行号より)

 2005年10月5日の朝日新聞に「スイスの独語危うし」の大見出しで、チューリッヒを中心とするドイツ語圏で国の公用語である独語に代わってチューリッヒのビシネス界では英語が主流であること。語学の学習には早期の指導が必要なことから、今まで中学からの英語の授業を小学2年から独語と宗教の時間を削って義務づけていることなどが載っていました。
  最近、日本でも中・高6年間の英語学習の成果が不鮮明だとの指摘から、小学校でも各クラスの担任が指導にあたっています。
  然し、外国語は最初耳にした音が身についてしまうので初期の指導にはかなりの慎重さが必要で、ネイティブスピーカーを効果的に使う配慮は欠かせません。
  また2006年1月の大学入試、いわゆるセンター試験から英語のヒヤリング力が試されることになり、実際大きな混乱もなく行われました。
  私は世界のグローバル化が進む昨今、日本の若者達には英語のブラッシュアップは勿論、さらに第2外国語を身につけて欲しいと思います。。日本のバブル期に爆発的に日本語熱が高まり、私もその指導のために渡米したことを思うと、経済的に躍進している中国に目を向けたのはアメリカらしいと思いました。
  2006年1月28日の朝日新聞には、大変興味深い記事で「独・仏語圏スイスを二分」と出ていました。内容は言葉が違うと考え方も違うということで、スイスのように独仏の2大言語の間で、その地理的、歴史的にも、人口比率による差が大きいと思われました。どちらかというと、独語圏は保守的傾向にあり、仏語圏は開放的でインタナショナルの雰囲気をもっていますから、国民投票などを行った場合にはその違いが明確になると思います。
  例えば「欧州経済領域への加盟」を問う国民投票では国連欧州本部のあるジュネーブを中心にフランス語圏が賛成72%、ドイツ語圏では37・7%で全体では49・7%になり否決されました。7割を超すフランス語圏では大きなショックでした。言葉にはそのバックグラウンドに根ざした人々の素養が見える思いでした。
  この両者の溝をうめるのはなかなか容易ではないと思いますが、このようなスイスの現状をふまえて対処しなければならないと思います。
  こういう問題は世界各地、例えばアメリカの東部と西部もそのよい例といえるでしょう。前述のバブル期に米国に長期滞在していた私は当時の日本のめざましいアメリカ進出と成り金のすさまじさに驚き、目を丸くしていた西部や中西部の人々に「どうして日本はこんなに金持ちなんだ」と何回となく聞かれました。
  それに対して、東部のニューヨークやワシントンの人々はあまり目くじら立てて質問をしませんでした。この違いをホストのフランク・ベルさんに尋ねますと「美佐子、それは、その土地の人の個性だよ。大都会に住んでいる人は東西南北の情報をよく把握し、じっくり考えて自分なりの結論を持っているから、あたふたしないんだよ」と説明してくれました。
  なるほど、言葉はその人の考え方や生きざまを垣間見せるものだと納得し、多言語国家スイスのこれからのあり様を見つめたいと思いました。

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第47
47 ことばと暮らし 1  (第62号 2006.07.01発行号より)

 私達の国のように単一民族で同じ言語、即ち日本語を話し、殆どの人が仏教の教えに基づいた生活を常としている国では、多民族国家や多言語国家の事情は理解しにくいものです。
  スイスは、ご承知のようにヨーロッパアルプスを北に南に通過する他国民との軋轢に苦慮し、それぞれのカントンが山岳民族らしいねばりで問題を解決しながら、今日のような独自性のある国づくりを成しとげました。
  その過程の中で、彼等の言語は多様で、ここにあげた資料のような区分になっています。この資料によりますと、東部のドイツに近いチューリッヒや首都ベルンを含む地域はドイツ語圏、ローザンヌやジュネーブのようにフランスに近い西部はフランス語圏、南部のイタリアとの国境に近い地域はイタリア語圏、そしてオーストリアに接するごく少数の地域ではその土地の言語であるレート・ロマンシュ語を用いていて、これら4言語のうちの独・仏・伊の3言語が公用語として認められています。
  こういう言語区分のあることを説明すると、「日常的に混乱はないのか」とか、それぞれの言葉をどうして覚えるのかとよく聞かれます。
  しかし、人間とは面白いもので、生きた言葉の中で暮らしていると、共通の場、即ちSituationが同じならば、囲りの情況や事情から会話は自然に成り立つもので、理屈抜きに理解しその繰り返しの中でお互いの言葉のハンディは乗り越えられるものです。それに独・仏・伊の3言語は語源が共通のものも多く、互いに親戚のようなものであることも幸いしています。
  私の孫が、全く日本語を知らない3才の春に静岡のバプテスト幼稚園に2ヵ月余りお世話になり、見よう見まねで日本語を身につけていきました。
  彼女の様子をよく見ていると、第1に相手のすることや言うことをよく見て、よく聞いています。第2に動作やことばを繰り返し真似をします。そして第3に相手に向かって動作やことばを使ってみるのです。
  その後、2年目と3年目に同じ幼稚園に1ヵ月位ずつ通園して、3年目には全く不自由なくお友達とおしゃべりして遊んでいました。それから日本の小学校生活の体験をさせたいという両親の希望から市内の私立橘小学校に2ヵ月お世話になりました。短期間でしたが、制服を着用したり体育の服装のあることなど、驚くことばかりだったようです。
  この経験は大変貴重で、後にチューリッヒやジュネーブの日本人学校の学習に生かされたようです。特に現在も毎土曜日に通っているジュネーブの日本人学校では、日本の小学校の五年生の国語と算数の教科書でかなり難しい内容を勉強しています。例えば次のような問題です。

 次の漢字を使って2語以上の単語を
作りなさい。
   @歩 歩道 歩行 歩数 散歩
   A手 手紙 手品 手製 拍手
  さて、言葉はその土地に何年か暮らさないと身につくものではないこと、それぞれの言葉には必らず長い伝統に裏付けされた意味や成り立ちがあることが、ご理解いただけましたでしょうか。

・・・次回へ続く・・

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第46
46 大人のスイス  ──La Cure──  (第61号 2006.04.01発行号より)

 2004年の秋、『スイスとっておきの旅便り』と題した鈴木光子氏の著書を読んで、ここに登場するスイス人に興味をもった私は、10月30日の朝、8時でもまだ薄暗いNyonの駅から私鉄に乗りました。3両編成のオレンジ色の電車は、時間通りに音もなく動き出しました。
  外は久し振りの晴天。まばゆいばかりの陽の光がレマンゼーに輝き、そのさざ波がまぶしい程です。紅葉が見事な丘陵をバックにぶどう畑は収穫も終わって、その黄色の葉が一面の傾斜地を染めていました。今いちばん美しい「秋」を演出して、ぼんやりのひとり旅にはもったいない舞台が用意されました。
  ここスイス西部、フランスとの国境のジュラ山系は、ゆるやかな山脈が700qも続き、その3分の1がスイス領だそうです。冬はマイナス30℃にもなるので雪も深く、スキー場として有名だと聞いていました。
  Nyonから45分程で終点ラ・キュールのスイス側に到着。さて、とその場の様子をよく見ると、駅舎を背に、向かって左側にスイス、右側にフランスの国境検問所があり、それぞれ国旗を掲げていました。
  この2つの建物の中間にはDuty Freeと書いた「ヴァンデル」という名の店がありました。早速入ってみると、ウイスキー、タバコ、香水に色々なチョコレート類が所せましと並べられていて、多勢の人々が買物をしていました。
  特に欲しい物もない私は、絵はがきを3枚買ってから「国境線上にあるホテルはどこか」と英語で聞きましたが、全く通じません。
  と、そこに居た客のひとりがすぐに勘づいて、フランス側に渡ってからホテルの見える所まで私を連れていってくれました。「あった。あった」。
  赤い看板にHotelとあり、スイス側をよく観察すると、建物の正面に「Hotel Franco-Suisse」と読めました。同じこのホテルがフランス側からは、「ARBEZ」(アルベー)と変わります。もし車で到着すると、道路には赤ペンキで線が引かれていて、こちらはスイス、あちらはフランスで検問所を通過しますが特にチェックもなくもの足りない気がしました。
  私は、まずホテルに入ってから中を通ってレストランに入ってみました。そこで気づいたのは、正面の壁にスイス人とフランス人が各々の国旗の付いた帽子をかぶってカード遊びをしている大きな絵がかかっていて、その2人の人の中央に白い点線が引かれていたことでした。
  私は、愉快になって何度もシャッターを切ってから、ウエイターにこの建物の事を尋ねると、すぐに「さあ、そこに立って。その柱が中心だよ。床の板が国境線だから君はそれをまたいで立つといいよ」と言うなり、パチリ、パチリと大サーヴィス。
  私は面白くて室内を眺め回して何枚か写真を撮りました。なんと注文したサラダのお皿にまで両国の国旗が描かれているという念の入れようで、つくづくこのオーナーのしゃれっ気というか遊び心がうれしくて、何かほっとした気分になりました。
  どうしてこうなったか調べてみますと、19世紀の初めにナポレオン一世により欧州の領土地図が一時的に塗りかえられ、1815年のウィーン会議とパリ会議でスイスとフランスを識別する線が引かれました。
  この時ラ・キュールは仏領のままでしたが、後にこの土地が分断されることになり、当時、自分の家が境界線上になることに驚いて両国にまたがった家を建て、一夜のうちに屋根を葺いてその存在をアッピールしたのが豪快な知恵者のポンチェス氏だったのです。
  しかし、第2次世界大戦ではフランス領がドイツに支配されて苦しい思いをしましたが、常に彼の機転で乗り切って事なきを得たと伝えられています。
  国と国との争いや不幸に一般市民が翻弄されるのは今も昔も変わりませんが、彼のようにひとつひとつの対応にスイス人らしい頑固さと勇気をもって対応され今があることに、つくづく「大人のスイス」にふさわしいと感心しました。またすでに5代目も成長していると知ってさもありなんと思いました。

・・・次回へ続く・・

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第45
45 子供のおまつり  (第60号 2006.01.01発行号より)


「Trick or Treat」
  「いたずらかおごりか」お菓子をくれなければいたずらするぞ≠ニいうHalloweenの時、物をもらって歩く子供達のかけ声が、10月31日の夕ぐれになると、どこからともなく聞えてきます。
  来た来た。近所の子供達が思い思いの仮装をして大きな袋を持って一軒一軒の家を巡ります。
  私のいたNew York州北シラキュースでは、10月半ばを過ぎると学校も家庭もハロウィーン一色になります。
  2004年の秋はスイスのNyonに滞在していたので、こちらのハロウィーンを知る機会に恵まれました。11月1日は、Halloween(All SaintsDay)で、その前日が、いわゆる子供達の喜ぶハロウィーンです。
  この頃は夕方5時頃に暗くなって翌朝8時でもうす暗いので、時計を1時間遅らせて冬時間になります。サマー・タイムの反対で、いよいよ寒くて暗い冬到来というわけです。
  昔からこのいやーな季節は、何か恐ろしい事が起こりそうな予感がします。空も灰色で何かもの悲しく湿っぽい感じです。これはきっと悪魔の仕業だと考えた人々が、冬を乗り切るための悪魔払いをして元気に暮らそうと始めたのが、この風習の始まりと言われています。
  子供達は、早くから仮装のことを考え、アニメや人気TVのキャラクター気分で、街の中をとび廻ります。街もハロウィーン・ムードで、妖怪や黒いマントに黒いトンガリ帽子の魔法使いのおばあさんなど、現実味を帯びたウインドウの飾りつけは、大いに子供達を喜ばせていました。その年によって街の催物は違うようで、この年は思い思いにグループを作って集って遊んでいました。
  ハロウィーンのオレンジのかぼちゃは食用にはならないのです。内側は空洞だからパンプキン・ランタンを作るには、このかぼちゃ用のナイフを使えば容易に出来ます。中にローソクを立てて火をつければ、以外に面白い表情になり、家の玄関脇に置いて魔除けの火をともします。
  ある時、「日本にクリスマスはあるか」と聞かれましたから、日本人は殆どがクリスチャンではないから宗教的な行事はない。と話したら、それなら「ThanksgivingやHalloweenは?」と矢つぎ早に質問されました。「祝日としての勤労感謝の日はあっても、それが直接子供の生活に関係はない。クリスマスも同様で商業主義に利用されて街が賑わう程度。ハロウィーンのような伝統的な風習はない」と説明すると、「僕は日本には行きたくないな。子供の一番愉しみにしている冬の3つの行事がないなんて、全く想像出来ない。日本の子供達は楽しくないね」と言われてドキッとしました。
  なるほどワイワイ、ドキドキするハロウィーン。家族みんなで囲む七面鳥の料理と豊かなご馳走がうれしい感謝祭。キリストの誕生を祝う聖なる夜の静けさと、翌朝のプレゼントを開く興奮はたまらないらしいですね。
  暗くて寒いこの季節を頑張って乗り切れるのもこれらの楽しみがあればこそだと痛感しました。そこで私は日本のお正月のことを話したけれど彼は殆ど興味を示しませんでした。
  彼等は、春を待ちわび、キリストの復活を信じて、3月21日以後の満月後の最初の日曜日(Easter Sunday)を盛大にお祝いします。スイスでは敬虔なカトリック信者が殆どで、冬の3大行事も落ちついて静かに家族と共にすごす家庭が多いのです。
  アメリカとヨーロッパとでは祝い方もかなりの差があると実感しました。

・・・次回へ続く・・

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第44
44 ところかわれば   (第59号 2005.10.01発行号より)

 2004年にギリシャのアテネで行われたオリンピックは、私共日本人に今までにない興奮と感動を与えてくれました。特に若い人達のめざましい活躍は、うれしい限りでした。
  さてその中の話題で面白かったことは、日本の応援団の荷物の中の黒くて丸いおにぎりを、爆弾と思って厳重に取り調べたことでした。
  自爆テロに神経をピリピリさせているアテネの警備の人達の緊張の程が判り、ほほえましく思ったものでした。
  これは、日本人にとっては想像できない文化の違いゆえ、爆弾という思いもよらない推測を彼等にさせたのでしょう。私にも「おにぎり」にまつわる体験があります。
  娘家族と私はよくスイスの山歩きに出かけます。その折には、きまって、ごはんに梅干し、かつおぶしを芯にしておにぎりを作り、黒いつややかな海苔で包みます。これをひとり2個位ずつ経木に包み、お弁当ぶろしきでくるんで、緑茶の入った水筒を持って出かけるのが常です。
  昼食時、船や電車の中でも私達は平気でいただきます。時々、黄色のたくわんや黒豆、茶色のかつおの角煮やゆで卵もほおばり緑茶も飲みます。
  こういう場合に私共をとり巻くスイスの人達は、きまって怪訝そうな顔つきでじーっと私達のやることを見つめています。
  ある時、スイスの四森州湖で有名なLuzernからリギ山に登って、下山途中に、湖を眺めながら例の昼食をとっていました。
  そこに初老のカメラを持った男性が近づいて来て、珍しそうに私達をみると「写真を撮らせてください」と言うなり、何枚もシャッターをきりました。彼等には、黒いのり状の食物も緑の飲み物もないからでしょう。
  私が10余年程前、アメリカの小学生に、おにぎりの実演をして試食する授業をした時、子供たちはじっと私の手元を見つめても手を出しませんでした。
  しばらくしてやんちゃな男の子が、お醤油のしみたかつおぶしを芯にしたおむすびを手にとってパクッとひと口、「うめ〜」のひと言で教室中が、てんやわんやのぶんどり合戦になりました。
  梅干しは苦手ですが、醤油味にはなじみがありますから抵抗もなく食べてくれました。後の感想は、「のりは沼の藻のようで、お茶は緑の味がした」としゃれた言葉が返ってきました。
  このように食物の色や形はその土地の風土の中で育まれたものですから、異国の人にとっては何とも理解しがたい不思議なものに映るようです。
  その表現も、スイスとアメリカの人とではまた違っていて、その国民性をよく表わしています。例えば、私はよく和服を着て街に出たり、授業もしました。ある時音楽会に出かけた折に、アメリカ人の親子が私を見つけて話をしていました。「ママ、あの人の着てるのは何?」「日本の人のキモノって言うんだよ」私に聞こえる程の声でしたから、私は思わずにっこりしました。
  その後で、男性が近くに来て、「この素材は何かね」「絹ですよ。この帯も下着も絹ですよ」と私。「へー。絹。高いよね。日本人はrichだね。ちょっとさわってもいいかい」「どうぞ」「なるほどいい絹だ」と彼。
  授業での高校生達は、私の足袋に目をぱちくりして大声で「Sexy」。
  スイスの子供達も大人も、いつも遠くから静かに見つめるので柔らかな視線を感じますが、決してさわったりはしません。彼等はなかなかshyなのです。
・・・次回へ続く・・

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第43
43 猛暑とハイヒールと   (第58号 2005.04.01発行号より)

 2003年9月26日付の朝日新聞の朝刊は『欧州の猛暑 500年で最高』というジュネーブからの報告を載せていました。
  それによりますと、スイスの気象庁は9月24日、長期的気象の変化に関する報告書を次のように発表しました。「欧州は今年1510年以降、最も暑い夏だった。90年代以後、気温上昇など気象に構造的な変化が起きている。猛暑は今年だけの特異現象で終わらない可能性が高い」と。
  またベルン大学チームは「過去500年間で欧州は今年以上の猛暑はなかった」と結論を出したと報じています。
  TV番組で「女性はなぜハイヒールを履くのか」が話題になっていました。「背を高く見せる」「姿勢がよくなる」などと応答していましたが、司会者は大変に興味ある解説をしてくれました。
  スイスなどの山岳地帯では昔の交通機関は馬車でした。近頃は環境美化のために殆ど電気自動車に変わりましたが、つい7〜8年前までマッターホルンへの登山基地でもあるツェルマットでは馬車を使っていましたから、客待ちの駅前広場は何十台もの馬車が連なり、その馬の排泄物の大・小便が散らばり、馬の歩く道路にもかなりの量が置き去りにされていて、その不潔さと鼻をつく悪臭には閉口したものでした。
  このように村の中央道にも公然と汚物が散在していましたから、それらを避けて歩くために踵の高い靴が日常的に使われたとのことでした。
  然し、最近は観光用に大きなホテルの送迎用として、数頭の馬が、お尻に布で作った細長い袋をつけて、汚物が外にたれ流しにならないよう配慮され、馬の方も気分よさそうに蹄の音も軽やかに、村の中を闊歩していました。
  そこで思いあたることがありました。1970年、私がヨーロッパ研修に行った時、フランス各地を訪ねましたが、各々の町や村の中心には必らず広場があり、教会と役場の塔がそこのシンボルでした。広場は集会用ですが、昔は貴族の館が周囲を囲む大庭園でした。
  当時の貴婦人達はフランス人形のように胸をしめつけ、下半身に針金を使ってふわっとしたランプシェードのようなスカートのワンピースを着ていました。この服装は日本人の私達から見るとまことに美しく羨望の的でしたが、これにもちゃんと実用的な意味がありました。当時の建築では、トイレは不浄でしたから館の中に用をたす場所はありませんでした。そこで広い庭には必らず細い水路を造り、そこをまたいで座り、スカートで隠して水洗トイレ式に使用していたのでした。
  ですからあの洋服のスタイルにはハイヒールと共に必然性がありました。このように生活の中のひとつひとつの事柄は人間が暮らしていく上に必要に応じて作られ、工夫改良されて便利になり現在に至っていると思います。
  習慣とは恐しいもので、殆ど「なぜか?」と考えないで使っていますが、元を正してみると実に興味深いものがあります。
・・・次回へ続く・・

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第42
42 「国民投票」って何?   (第57号 2005.07.01発行号より)

 2002年6月22日の朝日新聞に小さく小さく掲載されたスイス関連の記事を私は見逃しませんでした。僅か132文字でタイトルは『スイス国連加盟を来月申請』でした。
『スイスのフィリガー大統領は6月20日に署名をして、3月3日の国民投票以降の異議申し立ての処理や国会審議などの国内手続きを終了し、7月にアナン国連事務総長に申請書を手渡し、9月には国連総会で加盟が認められることになります』私はこの年の夏、スイスに居ましたので国連を見学しました。
  その折にこのニュースを聞いて、スイス国民の長い加盟への道のりと、彼等らしい頑固で慎重な考え方を思い知ると同時に仲間としての親近感もいだきました。
  スイスの国民投票は、原則として年に4回実施され、国政の重要案件は殆ど網羅されます。この結果が国の最高意思となり、政府や議会が承認した法律・条約・国際機構への加盟などでも、投票で否決されれば、無効となります。
  これは世界で最も徹底したスイスの伝統である直接民主主義を頑なまでに守るやり方の表われで、「自分達のことは、決して誰にも任せず自分達で決める」という強力なこの国の国民投票制度に受け継がれています。
「憲法の改正や重要な国際機関、国家共同体への加入は自動的に、連邦法の改正や条約への異議は5万人の署名か8州の意思で投票に付されます。国民の側から国政の変更を求める『発議』制度もあり、10万人以上の署名で国民投票となります。90年代以降増加傾向にあり、年10件強が国民投票になっています」と新聞に解説が載っていました。今までの主な国民投票の結果は下の表ようなものでした。
  なお今ではこの国でも珍しくなった地方自治の伝統を象徴するランツゲマインデと呼ばれる州民全員会議がAppenzellアッペンツェル・インナーローデン州で行われています。これは600年前から毎年4月に開催される行事で青空議会です。18才以上の州民約1万人が独特の服装で広場に集って議題ひとつひとつに挙手で採択が行われます。
  現在では奇習とさえ言われるこの制度を今も保持しているのには感心しました。欧州統合が進む中でいよいよ孤立化の目立つスイスが欧州連合(EU)にどうして加わらないのか世界中が関心をもって見守っています。
・・・次回へ続く・・

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第41
41 Genevaはスイスではない?! (第56号 2005.01.01発行号より)

 娘達がレマンゼーのほとりNyonに引っ越して、はや3年がたちました。スイス中東部のZurichに近いドイツ語圏に住んで10余年の後、娘婿の勤務の関係でフランス語圏に移りました。
  特急で3時間半乗ると公用語がフランス語に変わると同時に、生活もそれに応じてややフランス風になるこの国では、小学生の孫娘にとっては大きな負担でした。
  さて、この地域の中心は勿論Genevaです。スイス西部のジュラ山脈の麓、レマンゼーのほとりにあるこの都市は、豊かな自然と多彩な特質に恵まれた国際都市として知られています。
  ジュネーブは紀元前50年頃ローマに支配されました。そのため今のスイスは衣食においてはローマ的ですが、早くからヨーロッパの文化に接しながらこの恩恵を十分に取り入れませんでした。
  16世紀にマルチン・ルターの教えによりジュネーブ共和国となり、宗教改革が行われ、1559年ジャン・カルヴインは神学校を設立しました。16・17世紀にはヨーロッパ各地で迫害を受けたプロテスタント教徒の安住の地となり、1815年にジュネーブ共和国はスイス連邦に加盟しました。
  その後の1863年には「人道主義」を訴える国際赤十字委員会が発足し、多くの科学者や研究者がこの地を訪れました。やがて18世紀末から19世紀初めに起こったイギリスの産業革命の影響は国内産業に取り入れられて、海外市場を視野に入れた機械化による紡績、薬品、化学工業、時計などの工業を発達させました。
  特にチューリッヒ、バーゼル、ローザンヌそしてジュネーブでは大規模な生産力を拡大した手工業が行われました。
  政治的にも1848年「スイス連邦憲法」を制定しました。1789年のフランス革命から10年後にフランスはスイスの主要都市を占領して「ヘルヴェティア共和国」をつくり属国としましたが、フランスはスイスの封建制の貴族を追い払い、事実上の近代化への歩み出しに力を与えてくれました。
  この後、スイスは狭い国土と乏しい資源の中で生産をあげ、現在のこの国の産業の基を築くことが出来ました。1910年にはアメリカ大統領ウッドロウ・ウイルソンは国際連盟本部を設立し、2004年現在、191ヵ国の代表部を連ねる国連ジュネーブ事務局をはじめ200以上の国連機関・非政府機関が設置され、2002年9月にはスイスも国連に加盟して、世界の人々から「平和都市」と呼ばれています。
  1814年、ナポレオンに撹乱されたヨーロッパ戦後処理のために開かれたウィーン会議で、フランス代表として出席したタレーランドは「五大陸とはヨーロッパ・アジア・アメリカ・アフリカそしてジュネーブ」と発言したことは後々までも語り伝えられました。
  ウィーン会議は保守反動の風潮に支配され各国の人々の間に反抗の機運が生まれました。然し、スイスはこの時、永世中立国になったのです。
  このように、スイスの歴史の中で常に中心的な役割を演じたジュネーブは、この国の他の地域とは違う国際都市としての特殊性と隣接するフランスの影響を受けていることへの皮肉として、表題のように言われるのでしょう。
・・・次回へ続く・・

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第40
40 人間らしく生きられる  (第55号 2004.10.1発行号より)

 ドイツ人のヘルマン・ヘッセもスイスとの関係が深い一人です。1912年、すでにドイツからベルンに移り住んで、1914年から1918年の第1次世界大戦当時には平和主義を貫き、戦争反対論者として幻滅を体験し、42才でスイス南部のイタリア国境に近いテッスィーンのモンタニョーラに家族と別れて移り住みました。
  このことは1997年にこの地を訪れた私にとっては、たいへん興味深いことでした。年間の気温が温暖で、言語はイタリア語、宗教はカトリック、その文化や生活様式はイタリアの影響が強い所です。草木はあまり育たず石ばかりが目立つこの地域で、石壁や石の橋、ロマネスク様式の教会がある素朴な村という印象でした。
  旅立つ支度をしていた私に、静岡出身で広島大教授丹治信義氏がヘッセ生誕125年を機に『自然が活るヘルマン・ヘッセの世界』を渓水社から出版されました。私は著者の義姉丹治美代子氏に紹介されて早速拝読させて頂いたところ懐かしいスイスの山や谷、風や空気を、花を木々を、やさしいタッチで描くヘッセの作品をていねいに分析、解説されていました。
  それから渡欧して、娘の書棚を何気なく眺めていて、目についたのが『わが心の故郷・アルプス南麓の村』と題したV・ミヒェルス編、岡田朝雄氏訳の書でそのブックベルトには、「美しい土地が私を蘇らせた! スイスのテッスィーン地方への讃歌であり、『人間らしく生きられる場所とは何か』に就いて省察した」とありました。
  ヘッセはこの土地が気に入って、小鳥のさえずりを聞きながらの読書三昧。気が向けば畑を耕し、森の中を歩きまわり、村のあちこちに腰をおろして時を忘れて水彩画に取り組むなど、徹底した自己中心の生き方を貫いてここで多くの作品を世に出しています。
  俗界に居る私達にはとても出来ないけれど、決して妥協しないこの一徹さが彼をして世界的な名作を残し、「人間として生きられる場所」をここスイスに求め終の住み家としたことは、なかなか深い示唆を私達に与えてくれていると思います。
  さて、今年も静岡の友人、知人12名をスイスの山歩きの旅に案内して、8月22日から24日までの3泊4日、グリンデルワルトの村はずれ、アイガーを正面に見据えるベラリーを宿としました。準備の都合で先に到着していた私は当ホテルの案内書を読んでいて驚きました。「1902年にドイツの作家ヘルマン・ヘッセがこのホテル・ベラリーで休暇を楽しんだことが宿帳に記されています」とさりげなく書かれていたのです。
  すぐにホテルの女主人に確かめると、「その通りよ。次の部屋はヘッセの資料室だからどうぞご覧ください」とのこと。はやる気持ちを抑えて彼の作品のひとつひとつに目を通してこの偶然にびっくりしたものです。
  夕食後は、宿の主人と中島さんやその友人達を囲んでヘッセの話にわき、百年前の宿帳に残るヘッセ直筆のサインを拝見させていただきました。
  当時彼は友人の病気見舞でこの地を訪れ、このホテルの庭に繁る堂々とした菩提樹に魅せられてこのBellaryを宿としたのだそうだと説明してくれました。作家であり画家であったヘッセらしい宿の選び方だと感心しました。
  帰国すると、世界文化社がヘッセ生誕125年の特別連載として2002年6月号から8月号にかけて南川三治郎氏による撮影と文章を発表していると、友人がそのコピーを貸してくれました。いろいろの巡り合わせから、そして偶然がはからずもひとつになって、思い出多い感動の旅の出来たことを改めて感謝しています。
  最近、もう一度『車輪の下』を読みかえしました。
・・・次回へ続く・・

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第39
39 懐かしのオードリー  (第54号 2004.7.1発行号より)

 スイスのように、美しい自然に恵まれ、比較的治安もよく、静かな生活が期待できる所には、自然と「終の住家」を求め、「人間らしく生きられる場所」を探している人々が集まることは申すまでもありません。
  特に昔から、政治、経済、文化などの各方面で活躍する人々は競って多忙な生活から逃れ、ゆとりのあるリラックス出来る住居を求めて、スイスに移り住んだといわれます。そのうちのひとりに20世紀に銀幕で活躍した往年の名女優ヘップバーンがいます。
  スイス滞在中のある日、娘がある催し物の案内記事を見て、「あ、これは知らなかった。近くのMorgesにPavillion of Audrey Hepburnがあるよ」と教えてくれました。ここNyonに来てから各種のinformationを調べては気分まかせ足まかせでレマンゼー周辺の村や町の美術館、博物館、古城、各種の土曜市などの面白そうな所へはどんどん出かけていましたが「さて今日は何をしようか」とうすぼんやり考えていましたので、渡りに船とばかりにとびつきました。MorgesはNyonから湖沿いに電車で30分程行った町です。おいしいワインの産地として知られていますが、スイスの兵器庫があり軍事博物館があることには全く興味がない私は、まだ訪れたことはありませんでした。
「さてさて、今日はAudreyに会いに出掛けてみようか」と家をとび出しました。全然知識なしでモルジュの町に着いて、誰もいない昼下がりの駅構内の案内所に入って待つことしばし。
  ひとりの係が出て来て、私の質問に手短かに答えてくれました。一枚の町の地図をもらったけど、「これにはPavillionの場所は出ていない」とそっけない。ならば「交通機関は?」と問うと、「bQのバス」。どこから出るのかと聞き返すと、「駅前の路を右に行って少し下るとそこにバス停がある」と言います。
「どこで降りるのか」と私。
「第4番目のbus stop」
「Ticketはどこで買うのか」
「バスの中」。全くぶっきらぼうな対応に少々不満。でもそれだけ聞けば十分。
  その通りにバスに乗り、行先を伝えて2フランの切符を買い、ついでに第4バス停に着いたら知らせてほしいと運転手に頼んで座席に着きました。
  住宅地を抜けて、畑の広がる田園地帯に入ると、ドライバーは「Madamここだよ」とバス停で車を停めました。お礼を言って降りてもバスは動きません。運転手はぼんやりしている私の方を見て、しばらくしてから「Pavillionへ行くのか」と声をかけてくれました。「そうだ」と答えると手で平屋の建物を指さして「そこだ」と言う。「あゝ、ありがとう」下車しても目の前はただ広々とした畑の中に2棟の簡素な建物があるだけで人はいなかったからです。
  聞くことも出来ないでいた私にすかさず勘を働かせて教えてくれたバスドライバーの親切はうれしいものでした。ものを尋ねた時にその折々に示す気くばりはありがたいものです。味もそっ気もないやり取りで結局はポイントをはずすことも多々あります。質問した人の気持ちになって教えることを学んだ旅でもありました。
  さて正面の茶色のヘップバーンの胸像が私を快く迎えてくれましたので、まずはほっとしたところへ、「やあ、いらっしゃい。今、ドアを開けますからね」眼鏡の奥のやさしい目が私を見つめて近づいて来ました。丁度13時半。会館の開く時間。Good Timingでした。ここの館長らしい彼は要領よく館について紹介し、彼女の墓地と元の住居の位置をコピーして、ぜひ寄って行くようにとつけ加えてくれました。
  館内は私ひとり。長い女優時代の活躍が写真や当時のトロフィ、賞状、ポスターで飾り示され、懐かしいオードリーの表情とともに声までも聞こえてくるようなムードにしばし酔いしれました。
  次の部屋はユネスコ大使としての活動の様子を示す展示でした。彼女の素描のカードを3枚買ってからトロシュナ村の共同墓地の簡素な墓標だけのお墓におまいりし、40年暮らしたという広大な屋敷の外側を眺めて帰路につきました。
・・・次回へ続く・・

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第38
38 チャップリンを思う  (第53号 2004.4.1発行号より)

 娘の家族の引っ越しでジュネーブ近くのニヨンに住むことになりました。どんな所かと両手いっぱいに荷物を持って駅に着いたその時、最初に私の目に映ったのがNYONという大きな標示で、それでひと安心しました。欧米では、駅名は気をつけて見ないと見過ごすほどです。。
  この町の人口は僅か1万余人だけれど2000年の歴史があると、私が道を尋ねた老人は誇らしげに話してくれました。調べてみると、紀元前にジュリアス・シーザーの建てたシーザー・タワーや城壁などローマ軍の駐留地の遺跡があり、レマンゼーを見下ろす小高い丘にはギリシャ神殿を思わせる3本柱の神殿跡が保存されていました。更に13世紀に建立され16世紀に修築されたニヨン城が今も残っています。その城内は陶器博物館になり、近くにはローマン博物館もありました。
  自然の豊さは勿論のこと、歴史的にも早くからヨーロッパ・アルプスを越えた南北交通の要地として発達したこの国には、小説家ヴォルテール、哲学者ジャン・ジャック・ルソーをはじめ、多くの政治家や文化人が居を構えました。中でも私共に馴染みの深いヘップバーンや、映画の一時代を築いたチャーリー・チャップリンも好んでレマン湖畔に住んでいました。
  特にヴヴェイの町の人々はチャップリンを愛し、湖岸に銅像を建てたと聞いて、物好きな私は出掛けてみました。映画に出ていたそのままのポーズで、立っている彼を、私はとても微笑ましく感じ、往年の名作のいくつかを思い出しながら、しばらくの間じっと眺めて思わず、「チャップリン、たくさんの夢をありがとう」と声をかけました。このヴヴェイの隣村サン・サフランはワインでも名高く、チャップリンをはじめ、多くの人々の別荘があることでも知られています。ヴヴェイから電車で僅か7分位と聞いて1時間に1本だけ停車する私鉄の無人駅に降り立ちました。
  夏の昼下がり、私以外は誰も降りないし、誰もいません。湖にそそり立つような小さな村は一面がぶどう畑。線路を渡って村の1本道を登っていったけれど人影すらありません。ガイドブックで知ったレストラン「オーベルジュ・ド・ロンド」を探し、やっとみつけたしゃれた看板にほっとしたのも束の間、ドアは開きません。
  偶然そこを通りかかった唯一の村人に尋ねると、「5〜6年前に閉店した」とのこと。急にお腹がすいて疲れが出ました。そこで村のワイナリー(ふどう酒醸造所)を紹介してほしいと頼むと、彼女は快く何軒かのドアをたたいてくれました。どの扉も堅く閉ざしていたけれど、やっと一軒が重い頑丈な木の扉を開けてOKという。案内してくれたご婦人に丁寧にお礼を言って建物の中に入りました。
  そこの女主人は、私の目的が美味しいワインだと判ると、早速ワインセラー(ぶどう酒貯蔵室)に案内してくれました。それは外観とはほど遠い近代的で清潔なオートメーション化された設備で、立派な岩穴をくり抜いて造られていました。さすがスイスだと感心して、村一番の美味しいサン・サフランを2本買って娘の家族へのお土産としました。
  往きと同様に待つこと1時間。すーっと停まった電車に乗りました。サン・サフランは外観はそっ気ない村だけど、かなりの良質ワインの産地でその歴史は古いそうです。
  その日の夕食のテーブルにサン・サフランが登場し、小羊のステーキと共に味わいました。お土産のワインSt.Saphorinの美味しかったことは言うまでもありません。チャップリンもこの味をレマンゼーを渡る風を感じながら味わったことでしょう。

 いつ来ても、いつまで居ても、誰も何もせんさくしない。ほおっておいてくれる村の人達に、きっとチャップリンも好感をもって過ごしたことだろうとつくづく思いました。こういう接し方が何よりうれしいですね。
・・・次回へ続く・・
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第37
37 ハプニング  (第52号 2004.1.1発行号より)

 Madridの空港の分かりにくいこと。まず出発便を示すTVに目指すGenebar(スペイン語)の表示が出ません。しばらく待ったけれど仕方ないからTransit Informationへ。でもそこはなんと長蛇の列。やっと順番がきた私の質問に「Go straight」だけでした。長い間待って僅かひと言とは不親切きわまりありません。
  言われた通りに進んだものの心配で近くの店の人に聞くと、彼女は開口一番「あっ」とひと言、「12時15分発の便が11時45分までに第一ターミナルのA9へ」の文字を素早く読みとった彼女は、私にスペイン語が通じないとみると英語の出来る人を連れて来て事情を話してくれました。
  彼女は「とにかく目の前の自動ドアを通って地下に行き、ターミナル1行きのバスに乗れ」と言います。小走りに地下に降りて行った私はバス乗り場に居た女性に「Gate A9に行きたいが」と聞くと大声で「The last bus stop」と教えてくれました。
  私が急いで乗り込むやいなやバスは走りだしました。乗客は3〜4人。薄暗い地下から薄汚れた大型バスに乗っても全く方向がつかめません。最後のバス停まで幾つかの停留所があったからまたまた時間がかかりました。
  やっと到着と思いきや、「Madam」と呼びとめられて荷物検査、AlicanteのX線検査で私のバッグはピーピー鳴って「シーザーズ(はさみ)」と別のテーブルに連れていかれた。然し、ここでは全く鳴らないからおもしろい。
  このあとパスポートチェック。これまた前の人に時間がかかったので思わず「私は乗り継ぎで急いでいる」と大きい声で催促したら、うなづいて「どこから来たか」の質問に「アリカンテ」と言うと搭乗券を見せろと言います。
  もう12時。私は腹が立ちました。同じ国内を通過するのだからこの検査は不用だと思うけれども、ターミナルが変われば各方面から移動する乗客をチェックしなければならないのでしょう。でもチケットまで見せろとは信用されていないのでしょうか。
  そのあと「奥のリフトでA9に行け」との指示でまたまた暗い廊下の誰もいない所でひとりリフトに乗って上ったのがターミナル1。さてどっちに行くのか。
  通りすがりの空港警備員に聞くと「真っすぐ行け」との手の合図。そうかどんどん行こう。然し、途中でA9には→の矢印がついていました。「下りるのか?」と思わず近くに居た制服の係官に聞くと「そうだ」と言います。重い荷物を持って階段をエッチラ、コッチラ。またまた人気のない地下へ。フロアーでb探すと、あった。あった。A9と一番奥に読みとれました。でも人がいません。とにかく奥まで進んでみるとA9のデスクにちらっと人影が。あーよかったと思わず小走りに近づくと、彼は素気無く「もう飛行機は出てしまったよ。だからターミナル1のイベリア航空の乗り継ぎカウンターへ行って新しい搭乗券を求めろ」と言います。「まだ出発時刻まで5分ある」と私が言っても全く用をなしません。飛行機が飛び立ってしまったのだから。11時45分までに集合しなければだめだと彼は繰り返します。
  またまた人気のない暗い地下のホールをひとり歩くことに。ざわめきの絶えないマドリッドの空港ビルの中でも出入り便がなければ静かなもので、自分ひとり置き去りにされたのかと腹立たしい、ここまで何と時間のかかったことでしょうか。
  1時間の乗り継ぎの間にターミナル2から1へ行くまでのロスタイムが悔やまれました。さて、言われたデスクがまた長蛇の列。とにかくねばって事の次第を話し改めて搭乗券を発行してもらいました。それには16時発とあります。空港内を行きかう人々をぼんやり眺めながら4時間を費やしました。
  今度こそはTVのチェックをと画面をにらむことしばし、15時半になってやっと、16時半発A9と出ましたので勝手知ったるA9へ勇んで降りて行くと待合室にはもう幾人かが集まっていました。人がいるっていいなと思いました。早速、スペインにいる娘婿のご両親に電話しましたら「美佐子さん、ラッキーだったね。スイスに帰る便があって。よかった。よかった」でした。
・・・次回へ続く・・

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第36
36 「間」を考える  (第51号 2003.10.1発行号より)

 「このセーターはいかが?」突然、私の目の前に可愛らしいピンクのバラの飾りが幾つもついた白いアンゴラのセーターを見せたのは、サンフランシスコに住む友人のひとりエニッドでした。
  3日程宿泊させていただいて、いよいよ帰る日の朝、プレゼントだといきなり言われて私は返事に戸惑いました。こちらがお世話になったのだからいただく理由はありませんでした。
  何とも声が出なくて。それに、そのセーターのきれいなこと、とても高価そうで申し訳ない、などと頭の中はめまぐるしく回転して返事に困りました。
  その時、彼女はすかさず「YesかNoかはっきりしなさい」といつもの彼女とは違って実にきっぱりと言い切りました。そうだ返事をしなくては。勿論Yesだ。然し、と付け加えました「こんな立派なものはいただけない」と。それがまたいけませんでした。Yesと言ったらそれでOK。あとは何も言う必要はないのです。それが彼等の流儀だから。日本式にあれこれ尾ひれを付けて、だから、だって、でも……、は通りません。所謂YesとNoの間がないのです。
  私達には「結構です」と言うどっちつかずの便利な表現があるけれど、大体は「欲しいけど申し訳ない」という今回の私のような場合に最適で、まさに日本的です。
  それに日本のやり方では、出した物は引っ込めない人情から、殆どの場合に相手はその物をくださる、という本音と建前を知りつくしたやり取りが事をはこぶ慣わしになっています。
  いやはや、全く優柔不断で曖昧さこの上ないですね。でも、この奇妙な呼吸が何事もなかったかのように一件落着となるから愉快です。
  昨年のサッカーW杯の、アメリカでは試合の様子があまり熱心に報道されなかったそうです。
  それは、勝負の結果のはっきりしない引き分けという判定やPK戦のように、試合そのものでなく他のやり方で決着をつける方法がアメリカ人には気に入らないからだそうです。野球の、打った、走った、セーフ、のように精いっぱい戦い、どこまでも延長戦で決着をつける方が納得出来ると言うのです。
  サッカーの審判員の判定もいろいろ紙上を賑わしたけれど、所詮、人間のやること。当然ミスもあります。ピーッと笛を吹いて、さっと黄色のカードを高く上げるジャッジは格好いい。しかし、この一点に国運をかける国もあります。
  日本の国技の相撲は、土俵下に審判長と4人の元関取りの審判が羽織はかまの正装で座りじっと取り組みの様子を見ています。何か意見があれば挙手をし、5人は土俵上に上がって話し合って判断を下します。手早く勝ち負けを決めるのではなく、あくまでも合意のもとで時間をとって決定し、それをアナウンスするのです。このYesとNoの間の「間」がとても大事にされることはご周知のとおりです。このように東西の考え方を比べてみるとなかなか面白いですね。
  これは、どちらが良いとか悪いとか言うよりも、その時の事情を出来るだけ冷静に正しく判断するために最善の努力をすべきです。
  誰が見ても納得できない場合には、ジャッジに文句は言えないの一点張りではなく、当事者間で善処する余裕、即ち「間」も欲しいと思います。
・・・次回へ続く・・

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第35
35 暮らしの中味  (第50号 2003.7.1発行号より)

 前回、西欧の考え方の土台となる「個人主義」について書きましたが、今回はその具体的なことを3点にしぼってみました。

1.合理化された生活
  労働の待遇改善や住環境の整備充実は羨ましい限りで、人間がいちばん働きやすい条件が十分に研究されています。例えば、就職する場合に就労日数や勤務時間数の希望を、週3日とか、一日80%又は50%のように、自分の生活や家庭事情に応じて労働条件を設定し、その契約に基いて勤務すればよいわけで、社員とかパートの区別はなく、個人の設定内容に応じて給料が計算され支給されます。日本ではパートタイマーでない限り、一般的には100%就労ですので色々と不都合も生じやすいですね。
  以前に学校教育で述べたように、職業コースを選択すれば、自分の希望する内容の仕事にすぐ実戦力として役立ちますのでこの事にも一貫性のあることは見逃せません。
  また休暇についても羨しい限りで、1年に最低1ヶ月の有給休暇があり、今年休暇のとれなかった場合は来年度分に加算されます。このように、休暇制度は特にフランスが進歩的で休暇について法制化されているので、休みをとることはスイスでも義務だと考えられているのです。
  ですから夏になると殆どの人達は「バカンスのため、お店は休み」の貼り紙を出して悠々とイタリア方面に日光浴に出かけるのです。なんとも羨ましいですね。

2.論理的な考え方
  前述の労働時間のことなどを折角決めても、それを実行しなければ、何にもなりません。あくまでも個人が尊重される方法ですから、それに沿って、だれに気がねもなく働けばよいのです。
  日本的発想で、時間外なのに「忙しそうだから手伝う」などと思う必要はありません。お互いに物事を論理的に考えればすべてOKとなるはずで、それを皆で実践しない限りいつまでたっても生活改善にはなりません。場合によっては、自分で自分を苦しめることにもなりかねないのです。

3.自己主張が強く容易に妥協しない
  私達は職場の不満や問題点などが気になりながら、争いを嫌う国民性からか、また「出る釘は打たれる」式の遠慮からか、我慢してしまうことが多いですね。
  これは返って問題を複雑にしてしまうことにもなるのです。また家庭内でも、黙って事なかれ主義でやりすごすことがあります。私は両親から大人の話題を子供には聞かせないという風に育てられましたから、親が話している世間のことなど一切知らないで大きくなりました。ですから今だに、世間のことや社会情勢にうといままです。
  然し、こちらでは、何でも子供の居る前で話題にし、子供もそれに口をはさむ。例えば、私が「東京都は宿泊税をとるそうだ」と最近のニュースを披露すると、たちまちけんけんごうごうの反論です。特に孫は両親になぜかとその理由を正してから「じゃあ、東京に人が来なくなってしまうよ。それ分からないかなあ」と私に意見したのが面白いことでした。
  このように、幼い時から自然に大人に混じって話を聞き大人の判断を知ると同時に、自分なりの判断をして必要なら口をはさむことは、子供の社会性を育てるのに役立ちます。
  こちらでは、小学校から学校教育の中で話しことばについて十分に訓練し、また「聞く、話す」にポイントをおいた指導をするため、発音や表現能力についても、ひとりひとりの子供に合った矯正も行ないます。このように教育が実際に将来役立つように配慮されていることを興味深く思いました。
・・・次回へ続く・・

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第34
34 ゆとりはどこから  (第49号 2003.4.1発行号より)

 夏の夕方、どこからともなく聞こえるヴァイオリンの流しの音色。まぎれもなくシャンソンのメドレーです。またある時は、シロホンの昔懐かしい曲が哀調を帯びていつまでも続きます。5階の窓から顔を出すと、あちこちのベランダからやや小太りのおばさんや、ワンピース姿の娘さんが下をのぞきこんでいます。道路では、やんちゃな子供達までがほおづえをついて聞き入っているのです。今まで住んでいたチューリッヒを中心としたドイツ語圏にはこういう雰囲気はありませんでした。あ、曲が終わったらしい。みんなの拍手が聞こえます。
  娘は夫の転勤で7月にジュネーブ近くのニオンに引っ越しました。急行で僅か3時間余りというスイス国内ですが、フランス語圏に入ると途端にフランス語一色になってしまうのです。英語のYesなんて陰をひそめて、ドイツ語のja〈ja:〉からaui〈wi〉に変わります。人々の表情も心なしか柔かめで服装もおしゃれです。ひとつの国の中でこうも違うものでしょうか。
  大阪、静岡間位の間で国語が異なるというのには驚きました。孫は当然転校生になりました。ドイツ語圏にいて、学校ではスイス・ドイツ語も教わっていたのに、もうフランス語に切り変えなければならないのです。
  日本のような島国で直接外国との国境を持たない国と、四方を異国に囲まれ、その上ヨーロッパの屋根といわれる4000m級のアルプスを連ねていれば、国家として国を守るサバイバルの手だてに力を入れるのは当然のことで、その一番大きな比重を持つのが「ことば」なのです。
  歴史をひもといてみると、そこにはこの国の運命と、それへの並々ならぬ努力と戦いがあったことが分かります。「ジュネーブはスイスではない」と言われますが、それは国連のヨーロッパ本部や国際赤十字委員会をはじめ国際機関が集まり、あらゆる活動がここジュネーブで行なわれている国際都市だからです。
  独仏伊に囲まれたこの国がこの3ヶ国語と地元のロマンシュ語を加えた4ヶ国語のうち独仏伊の3言語を公用語と認めているのも当然のことと思われます。然し、そういう国際的な事情があるにせよ、ここに居ると、全くその厳しさを感じさせません。いつも静かにゆったりと時が流れています。日本のあのせせこましさや、目に見えないしがらみに左右され、本音と建て前に苦慮する生活では考えられないこのゆとりは何なのでしょうか。
  こういう私の質問に、ずばり娘は「生活の根本にあるのが徹底した個人主義だ」と答えてくれました。言いかえれば、あくまでも個人の価値を強調して、個人の自由、独立を尊重する立場をとる考え方だからです。自分の利益や楽しさを考えて行動するやり方で、ともすると利己主義で自分勝手になりやすい面もあります。
  私達日本人はどちらかと言うと自分を犠牲にしても他人の利益や幸せを考えて行動する利他主義ですから、彼等のようにピシッと割り切れないのですね。若い人達の中には西欧的な感覚も育ってきているけれど、まだまだ私共には日本的な心が生きています。日本人の長所である喜怒哀楽の人間的な感情を大切にすることも忘れないでほしいと思います。
・・・次回へ続く・・

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第33
33 お年寄りの笑顔  (第48号 2003.1.1発行号より)

 ピーヒョロ、ピーヒョロ、ホーシ、ホーシ、ピーヨ、ピーヨ、チィ、チィ……毎朝決まって5時半に一斉に鳴きだす賑やかな小鳥のさえずりで目が覚める。あゝ今日もいいお天気。早速起きて6時の日の出を待つ。
  誰ひとり歩いていない静かな小高い丘にある住宅地。どの家も手入れされた庭に花がよく咲いています。今、6月はバラの季節でみごとです。そのほかは日本と同様に、あじさい、コスモス、ゆり、かんぞう、ぎぼしなど、背丈の高い草花が目につきます。
  ここバーデンでは火曜日と土曜日に町の中央の教会広場に野菜と花の市が立ちます。今月は毎月末の土曜日に並ぶガラクタ市と重なって特に人出が多くありました。そこでは近在の農家の人達が取りたての野菜や、珍しい高原の草花の苗や切花を色どりよく束ねて売ります。そのやり方がなんとなくうれしくて、私はつい買ってしまいます。
  よく丈の高いひまわりやグラジオラスを大きな壷にたっぷりと生けて玄関や広い部屋に飾るけれど、洋風建築の初夏の風物としてとてもよく似合います。またスイス特有の窓辺に花を飾るのは町のきまりで殆んどが赤いゼラニウムのようです。
  友人が、静岡でも窓辺に同様の花を飾って丹精したけれど失敗したと話してくれました。気候条件がうまく揃わないとあの見事な演出は出来ないようです。
  この市でいつも私の気を引くのは朝の陽を浴びた野菜売りのおばあさんで、前から「絵になるなあ」と眺めていました。深いしわを刻んだその表情が、穏やかでやさしいのです。
  今朝もついおばあさんの前に立って「アイン、ゼックス、ビテ」と卵を6個買いました。どの卵が欲しいかと聞きながらケースに入れて3・5スイスフラン。1個46円位。決して安いわけではないけれど、地鶏の新鮮卵は鮮やかなオレンジ色の黄味が盛り上がっていて美味しいのです。
  初めてこのおばあさんに会ってからもう10余年。その間、いつもの姿で商売を続けている様子をスケッチしたいと思いつつも実行できません。私の実力のなさが悔やまれます。
  ポートレートは難しいものですね。でもいい顔の老人には何かひかれるものがあるのです。私が男性のお年寄りで心ひかれるのは、チロルの古い宿のあるじです。堂々とした体格によく陽やけしたしわの多い赤ら顔のこの老人は、夜遅く到着した私達を満面の笑みをもって迎えてくれたのです。その笑顔が長年の宿屋業に対する彼の自信と見えたのです。
  客をどう持て成すか。何をどうしたら客に喜ばれるかを十分に知りつくしているようです。マイスターの称号を持った職人肌のタイプなのでしょう。夜半のいろりの囲りには泊まり客らしい人達や村の人々も集まってのおしゃべりが続いていました。
  私達がテーブルに着くと、彼が近づいて来て「申し訳ないが今夜はスパゲッティだけしか出来ないが、それで宜しいか」と尋ねたのです。勿論、空腹の私達はOK。各々の大皿にたっぷりのスパゲッティ・ミートソース。その美味しかったこと。でも主人と私には食べきれませんでした。翌朝、私共は例の温い笑顔に見送られて出発したことは言うまでもありません。
  この柔和さとこのやさしさはどこで育まれたのでしょうか。彼のような老人の生活の安定とそれを支えるものは何でしょうか。娘といろいろと話し合って分かったことは、スイスの年金制度の確立によるもので、老後の安心感に基くことが何より大きいそうですが、なお詳細に調べてみたいと思います。
・・・次回へ続く・・

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第32
32 W杯に思う  (第47号 2002.10.1発行号より)

 スポーツに殆どかかわりなく育った私でしたが、静岡出身の三浦和良選手が私の勤務した中学校の在学生だった関係で、グランドで練習するサッカー部を横目で見ていました。その中にいつもボールをうまく操る彼の姿がありました。時折、廊下で声をかけたり職員室で話をしたりしました。その彼がブラジルから帰国して以来、ますます実績をあげて日本のヒーローになったことは、あまりにも有名です。
  さて、サッカーと言えばその源はイギリスにありと言われますが、今や全世界を席捲するフィーバーぶりは、老若男女を問わずにその面白さにひきつけられてしまいます。
  幸いにも今世紀最初の世界大会が、日韓共同で開催されましたメンバーの中に静岡関係の選手の多いことはさすがです。観戦しているうちに、攻撃タイプか守備タイプかそれぞれの国のあり様がよく分かりました。
  トルシエ監督の目ざす「個々が各々の立場での役割を十分に認識して、チームのためにどう働くかを具現化して試合を創りあげる。勝つことだけを考えるのではない。厳しさの中に美しさを求める」という考えに全く同感です。
  私のスイス滞在中にも何回かのW杯があって、その都度、スイスに暮らす外国の人々の喜びの表し方の違いを見てきました。普段、静かな田舎町のバーデンの夜半に全く突然、異様なけたたましい騒音に何事が起きたのかと、びっくりして飛び起きてしまいました。恐る恐る窓から眺めると車のクラクションを全開にして、イタリアチームの大きな応援旗をなびかせ、体を窓から半分乗り出して大声で叫びながら、何十台もの車の列が猛スピードで真っ暗な夜の町を縦横に走り回っているのです。日本では考えられない真夜中の出来事でした。
  思わず、住民に迷惑とは思わないのだろうか、パトカーは出動しないのだろうかと、一人つぶやいたものでしたが、ひと騒ぎが過ぎると、あとはまた何事もなかったかのようにいつもの夜の静けさになりました。
  然し、今大会の選手達の死闘は勿論のこと、全勢力をぶつける大勢の応援団の人達の気持ちを思うと、勝利に酔いしれる気持ちも分かってきました。サッカーとはこんなにも人々を楽しく、うれしく一体感にしてくれるものかと改めて納得したものでした。スイスも1954年には会場となり、以前は出場を果たしたこともあります。
  そのスイスの今年の大ニュースは「国連加盟」を問う国民投票の結果です。1291年にスイス連邦が誕生し、1848年には憲法を制定して永世中立を外交の最大原則として国家が成立しました。
  1984年、国民議会が国連加盟を議決しましたが、スイス国民とカントン(州)はそれを拒否しました。国連に加盟すれば、伝統の永世中立国としての立場は筋が通らないという国民の頑固なまでの執念がありました。
  今年の投票では、加盟賛成が反対をやや上まわっていました。各新聞は大きく取りあげて、「時代のすう勢か」との論評もありました。世界の冷戦時代が終わっても各地で火花の絶えない昨今、新しい世界秩序を模索している情勢の中で、私共にひとつの方向を示してくれた価値は高いと思います。
・・・次回へ続く・・

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第31
31 教育制度 大学進学か  職業訓練コースか  (第46号 2002.7.1発行号より)

 連邦政府が、1884年、職業学校を現在の形に近代化し、1908年、スイス全土に職業規定(実務と理論)を定めました。次ページに挙げた図表は1998年度のザンクト・ガレン州のものです。
  この図表に見られるように、スイスの教育制度は大変分りにくいものです。ポイントは、9年間の義務教育の後は、各自が将来の進路を決めなければなりません。それには大別して、大学進学コースか、職業訓練コースかのいずれかであり、それぞれが図のような方向性を示しています。
  日本の制度と大きく違う点は、スイス国内には7つの総合大学と2つの単科大学があり、入学は大変に難しいことです。大部分の生徒は職業訓練コースを選択します。このコースは実務が重視され、午前中の学習の後は、国内企業が実習の場を提供し、終了後にすぐ役立つ技術の習得に協力しています。
  本人の希望職種は細分化され、リストの中から自分の興味関心のある仕事に就くための訓練が十分に行われると聞いています。例えば、木彫りの場合、木材選び、木取り、デザイン、彫刻技術、作品加工など、具体的で実質的な勉強が何年間か続きますが、その間に能力検定試験を受けて実力を養成し、最高技術者としてのマイスターの称号を得れば大変な名誉であり、作品のマーケッティングの道も開けるので若者にも希望が持てます。
  よく田舎に暮らす生き生きとした表情の老人を見かけますが、きまって彼等は職人かたぎで、仕事に自信と誇りを持っています、人々に尊敬されて豊かな人生を楽しんでいる様子がうかがえるのは、うれしいものです。
・・・次回へ続く・・

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